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さて、記録の続きを。
第9回シアターX 国際舞台芸術祭 2010
プレ・シンポジウム
次の発言者は、
足をずっと組んでいた、眼の鋭い女性。
近代文学のカテゴリにぎりぎり入るらしいと笑っていた作家さん。
★ 田口ランディさん
チェーホフのかもめにおいて、
強く感じる要素は三つある。
「絶望」「信仰」「アトモスファー」
一つ目の要素「絶望」について
主人公は空想によって絶望する。
空想で絶望する。
そのようなことが出来る者は、現実の周辺にいる人のみ。
その真っ只中にいる者はしないものである。
二つ目の要素「信仰」について
神を信じるとか、宗教とか、そういった問題ではない。
成功していても満たされない主人公。
ニーナはぼろぼろでも信仰がある。
主人公にはそれがない。
生きている意味が分からない。
自分の作品に責任を持てないでいる。
主人公が自殺したのは、ニーナにふられたからではない。
若い頃はそう捉えて(ふられたから自殺と)読んでいたが、
その後時を経て考えが変わっていった。
三つ目の要素「アトモスファー」について
空気、雰囲気のことである。
小説は、誰かの視点で主人公が冒険する。
よく売れる作品に仕上げるためには、
より魅力ある主人公と大きな壁を設定し、描かなければならない。
そんな小説より、演劇のほうが確実に優れている。
それは、雰囲気、予感、場の力、微妙な予兆が人間関係の中で出てくるから。
これは、言葉では表現できないものだ。▲
★ 演劇死神ラディーの考察
小説と違って演劇は、
誰かの視点で描写せずに済む。
また、小説の場合、
演劇なら皮膚で感じることの出来る立ち上る空気なども、
いちいち言葉を用いて細かく描かねばならない。
言葉を扱っているプロだからこその発言。
作家ゆえ、言葉の不自由さが分かるのだろう。
その証拠というわけではないが、
彼女は後の発言で、身体性について言及していた。
昔、演劇に携わっていたようなことを
最初の発言時、言っていた気もする。
ただ、終わりのほうに
アニシモフ氏のワークショップに参加したことのある男性が、
僕は逆に、演劇より小説のほうが優れていると最近知人に話したところだ、
と発言していた。
実に興味深い問題である。
が、ここからが残念だった。
その理由を特に述べてないのだ。
というか
色々と頼りなさげでしどろもどろな曖昧な発言が多かったため、
実は当方何もメモってません。
まあ、そのような類いの演劇経験者だったのだろうという印象。
どこまで何を考え、演劇にどういった理由で限界を感じたのか、
発言してくれてたら良かったのに、と私よりは年上だろうが充分若い日本の演劇人にがっかりしたのだ。
「招かれざる客」ってタイトルの記事で書こうか迷ったが、ここに挿入しました。
話が逸れまくったので元に戻すが、
その前に一つ記すとするならば、
(と言って長い話になるのだが)
どちらが優れているなどと比較するようなことは出来ない、
というのが個人的見解である。
文芸学科に在籍し、
早いうちに文芸の学生にとってマイナーな授業を受講し、
三年次からは演劇学科の授業などを色々と受けていた演劇死神。
文芸学科の教授陣に、
戯曲も立派な文芸であり、
なぜそういうゼミや授業がないのだ、と声を大にして言い続けた演劇死神。
演劇学科の教授陣になぜかラディーという芸名?で通っていた演劇死神。
卒業制作も、
由緒正しき純文学の小説家(尊敬してます佐藤洋二郎氏)のゼミで、
小説50枚以上、副論文30枚以上提出のところ、
強く交渉し、
「どうせ改行が多いだろうから他の者の倍書け」と言われ、
戯曲も副論文も一応100枚以上提出した演劇死神。
戯曲も文学、言葉を扱っている。
だが上演されることで、演劇として成立する。
身体を通すことで、
戯曲上、良く見えない何かが立ち上ったり、
欠点が補われたりするとよく言われるが、
まさにその通りである。
ある意味、奇跡である。
だからといって、小説のほうが力がない、などと言えるか。
それは実に安直。
まあ、私は小説など学生時にろくでもない駄作しか書かなかったし、
そんなものしか書けなかった者なのでそんなこと言える立場ではないのだが。
とにかく、
演劇と小説はベクトルが、性質が違いすぎる。
TVシナリオと舞台台本(もしくは戯曲)とか、
そういった脚本と小説とか、
そういった比較ならばしやすいと思うが、
それにおいてもどちらが優れているかなど論じる必要はないように思える。
阿部公房にせよ、井上ひさしにせよ、柳美里にせよ、
戯曲も小説も書いておりますし。
いい加減、うざくなったので話を戻します。
「主人公が自殺したのは、ニーナにふられたからではない」
この田口さんの発言について、少々思うところがある。
というより、
シンポジウム時の状況からすると、
少々言葉足らずである。
主人公が自殺するきっかけとなったのは、やはりニーナである。
注目作家になっても何一つ満たされず、彼を満たすのはニーナという希望である。
しかし彼女は去った。
自分のすべきこと、殉じることを明らかにして。
落ちぶれた、女優とも言えぬ女が、
作家になった彼が見いだせないでいる道を歩いていくのだ。
既に芸術に苦悩し、絶望していた彼をつなぎ止めていたのはニーナ。
そんなニーナが去っていった。
だから自殺したのである。
ニーナが、彼と暮らす道を選択していたならトレープレフは自殺しなかっただろう。
確かに
ニーナにふられた、という恋愛の終わりが要因ではない。
しかし彼は芸術に殉じたわけでもない。
自殺したきっかけはニーナが去ったこと、そう私は考える。
かつて不意に撃ち殺してしまったかもめのように
いつ衝動的に死んでもおかしくなかったトレープレフ。
チェーホフが、
そんな彼の自殺のタイミングを、
ニーナが去った後に選択したのはそういうことであろう。
そのタイミングしかなかったはずである。
田口さんの発言に対する上記の考察は、
揚げ足取りとか、言葉のあやだという風に思えるかもしれないが、
この自殺問題に関しては我々の創作において重要な問題であるため、
あえて記すこととした。
恋愛の終わりが原因ではないが、
唯一の希望、救いであったニーナが去っていったことは、
自殺行動の大きな要因である。
しかし忘れてはならないのは、芸術、生きていく意義、使命を見いだせずにいる、そんな苦悩が、彼の心を蝕んでいたのもまた事実である。
この二つの要因が片方でも欠けていたならば、彼はそのような行動を取らなかったと思われる。
作家になって、ニーナが現れるまで、彼は忍耐をしていたのだから。
ニーナが見いだした、忍耐というものを。▲
ぐふっ、長くなってしまったので
やはり一人分の発言しか書けんかった。
くそぅ。
と思ったが、
「信仰」というキーワード繋がりの、豆知識的な発言だったので
やっぱり簡潔にまとめておこうと思う。
計二名。
まず
前回の記事に登場した、演劇評論家の発言。
★ 中本信幸さんの発言の断片
① 「信仰」と「信ずる」
戯曲においてロシアでは、使い分けている。
言葉の響きも違っている。
しかし実際、日本の翻訳も、ロシア俳優も使い分けていない。
② スタニスラフスキーの言葉の引用
芸術上の真実は信ずることの出来るモノ
現実の真実とは違う。▲
そしてその後すぐに、
前々回の記事に登場した、ロシア功労芸術家の発言。
★ レオニード・アニシモフ氏
チェーホフは信念と使命が必ず結びついている。
漠然とした概念で語っていない。
何が真実か、具体的に語っている。
「私は使命を感じ、信仰している」と、
かもめ四幕最後のほうのニーナの台詞にある。
信仰というのは、人間と一緒に育っていく。▲
通訳者の言葉をまんまメモったんで、
なーんか「信仰」やら「信念」やら
言葉の微妙なニュアンスが怪しい気もする。
そこで、
以下の定義で強引にまとめてみる。
★ 演劇死神ラディーの強引な定義
通訳者が
「使命と信念」「使命と信仰」というように二種使っているため、
アニシモフ的概念から言えば、使命は使命、信念は信仰と言い換え可能。
そこで、
A:アニシモフ氏の「使命」=中本さんの「信仰」
B:アニシモフ氏の「信念(信仰)」=中本さんの「信ずる」
と勝手に解釈。
理由は以下。
A:使命感、命を捧げる、それに殉死する覚悟あり。=信仰。
B:信念を曲げない。=信じている。
信仰という言葉が非常に厄介なので、
中本さんの信仰を「使命」と
アニシモフ氏の信仰(信念)を「信ずる」に置き換えることとする。▲
では、いざ!!!
★ 演劇死神ラディーの強引なまとめと読解
「使命」と「信ずる」という言葉が、戯曲に記されている。
かもめ四幕最後のほうのニーナの台詞
「私は使命を感じ、信じている」
を見れば分かるように、
チェーホフは漠然とした概念で語っておらず、
「使命」と「信ずる」が必ず結びついています。
「信ずる」というのは、人間と一緒に育っていく。
(人間と一緒に育っていく。
これはおそらく、ニーナが信ずることができ、トレープレフができなかった理由になるだろう。
閉じこもった作家と、外の世界に触れて痛い目見た落ちぶれた女優。
人と触れ合ったのは明らかにニーナ)▲
ふぃ~、とりあえず今日はここまで。
次回、
瞬間、心、重ねて
この次も、サービスサービスゥ!
第9回シアターX 国際舞台芸術祭 2010
プレ・シンポジウム
次の発言者は、
足をずっと組んでいた、眼の鋭い女性。
近代文学のカテゴリにぎりぎり入るらしいと笑っていた作家さん。
★ 田口ランディさん
チェーホフのかもめにおいて、
強く感じる要素は三つある。
「絶望」「信仰」「アトモスファー」
一つ目の要素「絶望」について
主人公は空想によって絶望する。
空想で絶望する。
そのようなことが出来る者は、現実の周辺にいる人のみ。
その真っ只中にいる者はしないものである。
二つ目の要素「信仰」について
神を信じるとか、宗教とか、そういった問題ではない。
成功していても満たされない主人公。
ニーナはぼろぼろでも信仰がある。
主人公にはそれがない。
生きている意味が分からない。
自分の作品に責任を持てないでいる。
主人公が自殺したのは、ニーナにふられたからではない。
若い頃はそう捉えて(ふられたから自殺と)読んでいたが、
その後時を経て考えが変わっていった。
三つ目の要素「アトモスファー」について
空気、雰囲気のことである。
小説は、誰かの視点で主人公が冒険する。
よく売れる作品に仕上げるためには、
より魅力ある主人公と大きな壁を設定し、描かなければならない。
そんな小説より、演劇のほうが確実に優れている。
それは、雰囲気、予感、場の力、微妙な予兆が人間関係の中で出てくるから。
これは、言葉では表現できないものだ。▲
★ 演劇死神ラディーの考察
小説と違って演劇は、
誰かの視点で描写せずに済む。
また、小説の場合、
演劇なら皮膚で感じることの出来る立ち上る空気なども、
いちいち言葉を用いて細かく描かねばならない。
言葉を扱っているプロだからこその発言。
作家ゆえ、言葉の不自由さが分かるのだろう。
その証拠というわけではないが、
彼女は後の発言で、身体性について言及していた。
昔、演劇に携わっていたようなことを
最初の発言時、言っていた気もする。
ただ、終わりのほうに
アニシモフ氏のワークショップに参加したことのある男性が、
僕は逆に、演劇より小説のほうが優れていると最近知人に話したところだ、
と発言していた。
実に興味深い問題である。
が、ここからが残念だった。
その理由を特に述べてないのだ。
というか
色々と頼りなさげでしどろもどろな曖昧な発言が多かったため、
実は当方何もメモってません。
まあ、そのような類いの演劇経験者だったのだろうという印象。
どこまで何を考え、演劇にどういった理由で限界を感じたのか、
発言してくれてたら良かったのに、と私よりは年上だろうが充分若い日本の演劇人にがっかりしたのだ。
「招かれざる客」ってタイトルの記事で書こうか迷ったが、ここに挿入しました。
話が逸れまくったので元に戻すが、
その前に一つ記すとするならば、
(と言って長い話になるのだが)
どちらが優れているなどと比較するようなことは出来ない、
というのが個人的見解である。
文芸学科に在籍し、
早いうちに文芸の学生にとってマイナーな授業を受講し、
三年次からは演劇学科の授業などを色々と受けていた演劇死神。
文芸学科の教授陣に、
戯曲も立派な文芸であり、
なぜそういうゼミや授業がないのだ、と声を大にして言い続けた演劇死神。
演劇学科の教授陣になぜかラディーという芸名?で通っていた演劇死神。
卒業制作も、
由緒正しき純文学の小説家(尊敬してます佐藤洋二郎氏)のゼミで、
小説50枚以上、副論文30枚以上提出のところ、
強く交渉し、
「どうせ改行が多いだろうから他の者の倍書け」と言われ、
戯曲も副論文も一応100枚以上提出した演劇死神。
戯曲も文学、言葉を扱っている。
だが上演されることで、演劇として成立する。
身体を通すことで、
戯曲上、良く見えない何かが立ち上ったり、
欠点が補われたりするとよく言われるが、
まさにその通りである。
ある意味、奇跡である。
だからといって、小説のほうが力がない、などと言えるか。
それは実に安直。
まあ、私は小説など学生時にろくでもない駄作しか書かなかったし、
そんなものしか書けなかった者なのでそんなこと言える立場ではないのだが。
とにかく、
演劇と小説はベクトルが、性質が違いすぎる。
TVシナリオと舞台台本(もしくは戯曲)とか、
そういった脚本と小説とか、
そういった比較ならばしやすいと思うが、
それにおいてもどちらが優れているかなど論じる必要はないように思える。
阿部公房にせよ、井上ひさしにせよ、柳美里にせよ、
戯曲も小説も書いておりますし。
いい加減、うざくなったので話を戻します。
「主人公が自殺したのは、ニーナにふられたからではない」
この田口さんの発言について、少々思うところがある。
というより、
シンポジウム時の状況からすると、
少々言葉足らずである。
主人公が自殺するきっかけとなったのは、やはりニーナである。
注目作家になっても何一つ満たされず、彼を満たすのはニーナという希望である。
しかし彼女は去った。
自分のすべきこと、殉じることを明らかにして。
落ちぶれた、女優とも言えぬ女が、
作家になった彼が見いだせないでいる道を歩いていくのだ。
既に芸術に苦悩し、絶望していた彼をつなぎ止めていたのはニーナ。
そんなニーナが去っていった。
だから自殺したのである。
ニーナが、彼と暮らす道を選択していたならトレープレフは自殺しなかっただろう。
確かに
ニーナにふられた、という恋愛の終わりが要因ではない。
しかし彼は芸術に殉じたわけでもない。
自殺したきっかけはニーナが去ったこと、そう私は考える。
かつて不意に撃ち殺してしまったかもめのように
いつ衝動的に死んでもおかしくなかったトレープレフ。
チェーホフが、
そんな彼の自殺のタイミングを、
ニーナが去った後に選択したのはそういうことであろう。
そのタイミングしかなかったはずである。
田口さんの発言に対する上記の考察は、
揚げ足取りとか、言葉のあやだという風に思えるかもしれないが、
この自殺問題に関しては我々の創作において重要な問題であるため、
あえて記すこととした。
恋愛の終わりが原因ではないが、
唯一の希望、救いであったニーナが去っていったことは、
自殺行動の大きな要因である。
しかし忘れてはならないのは、芸術、生きていく意義、使命を見いだせずにいる、そんな苦悩が、彼の心を蝕んでいたのもまた事実である。
この二つの要因が片方でも欠けていたならば、彼はそのような行動を取らなかったと思われる。
作家になって、ニーナが現れるまで、彼は忍耐をしていたのだから。
ニーナが見いだした、忍耐というものを。▲
ぐふっ、長くなってしまったので
やはり一人分の発言しか書けんかった。
くそぅ。
と思ったが、
「信仰」というキーワード繋がりの、豆知識的な発言だったので
やっぱり簡潔にまとめておこうと思う。
計二名。
まず
前回の記事に登場した、演劇評論家の発言。
★ 中本信幸さんの発言の断片
① 「信仰」と「信ずる」
戯曲においてロシアでは、使い分けている。
言葉の響きも違っている。
しかし実際、日本の翻訳も、ロシア俳優も使い分けていない。
② スタニスラフスキーの言葉の引用
芸術上の真実は信ずることの出来るモノ
現実の真実とは違う。▲
そしてその後すぐに、
前々回の記事に登場した、ロシア功労芸術家の発言。
★ レオニード・アニシモフ氏
チェーホフは信念と使命が必ず結びついている。
漠然とした概念で語っていない。
何が真実か、具体的に語っている。
「私は使命を感じ、信仰している」と、
かもめ四幕最後のほうのニーナの台詞にある。
信仰というのは、人間と一緒に育っていく。▲
通訳者の言葉をまんまメモったんで、
なーんか「信仰」やら「信念」やら
言葉の微妙なニュアンスが怪しい気もする。
そこで、
以下の定義で強引にまとめてみる。
★ 演劇死神ラディーの強引な定義
通訳者が
「使命と信念」「使命と信仰」というように二種使っているため、
アニシモフ的概念から言えば、使命は使命、信念は信仰と言い換え可能。
そこで、
A:アニシモフ氏の「使命」=中本さんの「信仰」
B:アニシモフ氏の「信念(信仰)」=中本さんの「信ずる」
と勝手に解釈。
理由は以下。
A:使命感、命を捧げる、それに殉死する覚悟あり。=信仰。
B:信念を曲げない。=信じている。
信仰という言葉が非常に厄介なので、
中本さんの信仰を「使命」と
アニシモフ氏の信仰(信念)を「信ずる」に置き換えることとする。▲
では、いざ!!!
★ 演劇死神ラディーの強引なまとめと読解
「使命」と「信ずる」という言葉が、戯曲に記されている。
かもめ四幕最後のほうのニーナの台詞
「私は使命を感じ、信じている」
を見れば分かるように、
チェーホフは漠然とした概念で語っておらず、
「使命」と「信ずる」が必ず結びついています。
「信ずる」というのは、人間と一緒に育っていく。
(人間と一緒に育っていく。
これはおそらく、ニーナが信ずることができ、トレープレフができなかった理由になるだろう。
閉じこもった作家と、外の世界に触れて痛い目見た落ちぶれた女優。
人と触れ合ったのは明らかにニーナ)▲
ふぃ~、とりあえず今日はここまで。
次回、
瞬間、心、重ねて
この次も、サービスサービスゥ!
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