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さて、前回記した通り、
私の書き殴ったノートをまとめていこうと思う。
第9回シアターX 国際舞台芸術祭 2010
プレ・シンポジウム
★ 主催・代表である女性
全四幕の喜劇である、
チェーホフの「かもめ」は、
これまで様々な解釈・演出がされてきた。▲
シアターXのフェスティバルの歴史などを交えた、
彼女の挨拶が終わると、
司会者である男性がある男性を指名。
ロシア功労芸術家であり、
東京ノーヴィ・レパートリーシアター芸術監督でもあるかたの、
通訳者を介しての発言となる。
★ レオニード・アニシモフ氏
様々な国・場所・人でチェーホフを上演してきた。
同じ演目でもあるし、そうでないときもある。
そんな中、毎回同じ問題に直面する。
チェーホフ作品には、
ある種の繊細さ・微妙さがついて回り、表現が難しい。
また、
ロシアで、詩的・音楽的とされるチェーホフだが、
ヨーロッパでもそう言われている。
チェーホフ作品は音楽である、と。
翻訳された言葉においても、言語の美しさを感じることだろう。
チェーホフは、
人間の魂の感覚に非常に微妙なアプローチをしている。
彼は、気分・予感という問題を初めて取り入れた。
これには、当時の歴史的背景が大きく影響している。
当時ロシアでは資本主義が始まったばかり。
人々の生活に変化が現れた。
分別・金・人間関係の問題が出てきた。
分別と心の衝突。
それがチェーホフの根本的テーマである。
そして彼の作品全てに、金・分別の問題が出てくる。
一人一人の中にその戦いが存在している。
多くの芸術家がそれを直感的に感じ、今日的に感じている。
デリケート・繊細な感情で生きていきたくても、金の問題が出てくる。
金というモノがチェーホフの喜劇的からくりである。
かもめにおいては、
銭勘定で生きている女優と作家が素朴な村へやってくるし、
他作品においても同様に、金に対する何かが描かれている。
そして、
四大戯曲の最後の作品である、桜の園では、
文化と美しさが伐採されている。
四大戯曲の最初の作品である、かもめにしても同様だろう。▲
まあ、こんな感じでチェーホフ作品についての話があり、
その後、少々テクニカル的な内容へ移行する。
チェーホフ作品への取り組み・表現について、だ。
★ アニシモフ氏:続き
チェーホフは、分別によって表現できない。
現代の俳優はあまりに分別つけすぎる。
アメリカ俳優においては、
金に対する問題は軽々とやってのける。
だが気分・人間的な感情は出来ない。
彼らによってその問題は辛く、難しいのである。
これについては、残念ながら現在のロシア俳優も同様である。
昔のロシアの芝居には分別臭さはなかった。
20、30年前は、感受性に富んだロシアの芝居があった。
日本人俳優は、
チェーホフ作品における繊細なモノを自然に受け入れることが出来る。
おそらく、日本文化に繊細さがあるからだろう。
だが、それを表現できるかは別問題。
今は残念ながら出来ていない。
チェーホフの、魂の世界に行き着けるだろうか。▲
ざっとこんな感じのことをおっしゃっておりました。
するとすかさず司会者から質問が飛ぶ。
「金勘定とは?」
ロシア語を通訳した際の言葉が気になったのだろう。
より明確にしておくための、実に気の利いた質問。
★ アニシモフ氏の通訳者による補足
分別臭い、つまり損得勘定のこと。
論理的すぎる。物質主義的である。
何も金だけの問題でなく、全てにおいてである。▲
まだまだ先は長いのだが、
とりあえず今日はここまで。
★ 演劇死神ラディーの考察
金の問題は容易に理解出来ても(さすが資本至上主義)、気分の問題にはさっぱりなアメリカ俳優。
気分の問題が理解は出来る(でも表現できない)日本人俳優。
この違いはコンテクスト(コンテキスト)文化によるものだろう。
日本は、高コンテクスト文化とされている。
生活習慣・文化的背景・経験に共通点が多いことにより、
伝える努力やスキルがそれほどなくても、
互いに相手の意図を察しあうことで、
なんとなく通じてしまう、便利な(ある意味曖昧な)文化。
共有時間や共有体験がモノを言う文化。
ex.
NOと言えない日本人。
同じ釜の飯を食った仲間ならツーカーで分かる。阿吽の呼吸。
年功序列。
これに対し、
アメリカは多民族国家であり、低コンテクスト文化とされている。
宗教や先祖の歴史的背景、教育環境の在り方が多岐に渡ることにより、
コンテクストに依存するのでなく(依存しにくい)、
言語によりコミュニケーションを図ろうとする文化。
要は、個々人が独自性を尊重し、
己の考えや意思を明確に伝えることが絶対とされる文化。
ex.
YES or NO
実力主義。
だが、人間関係が希薄化していく現在の日本において、
そしてアメリカ型資本主義の影響・恩恵のある日本において、
ロシアの演劇人であるアニシモフ氏のいう、
日本人特有の繊細さも正直眉唾であるだろう。
感受性に富んだロシア芝居が分別臭くなってしまったように、
日本の芝居だってその道を辿ることだろう。
いや、既に辿っているのだろう。
アニシモフ氏は、
日本人の多い中、気を使っただけのことである。
しかしそれでも、
繊細な心の問題を理解出来たとしても、
表現に至っていないということを譲らなかったのはさすがである。
そう、「理解出来る」ことと「表現出来る」というのはイコールには成り得ないのである。
しかし、表現するには理解せねばなるまい。
理解出来るからこそ、次のステージへ進めるのである。
しかし、
理解してしまうことで、分別臭くはならないだろうか。
これについて私はこう考える。
理解したつもりでいるなら、分別臭くなるかもしれない。
しかし理解することが分別臭さになってしまうとは思わない。
あくまで理解したつもり、理解したふり、がまずいのである。
ロシア演劇に欠かせないのはやはり
チェーホフ劇を上演していたモスクワ芸術座(ちなみにシンボルはカモメのマーク!)。
そこには、演劇人で知らない奴が居たら今すぐ消え去ったほうが良い御方が携わっていた。
そう、スタニスラフスキーである。
彼の提唱した演技術(スタニスラフスキー・システム)は
多大な影響を与え、今も与え続けているはずです。
リー・ストラスバーグ(メソード演技)もそれを軸にしているし、
その演技術により、かのマリリン・モンローとかも育ったわけです。
アクターズ・スタジオ!!!
まあ、余談ですが、
チェーホフのかもめを上演した際、
スタニスラフスキーは売れっ子作家トリゴーリンを演じたのですが、
内面(作家としての悩み)を強く反映させたため、
歩き方から語り口まで、全てにおいてウンコだったようで、
チェーホフもそのときはノーコメント、
後に、あんなトリゴーリンならニーナは恋なんてしなかったろうよとぼやいたとか。
それに、かもめ上演の際に、
チェーホフがこれは悲劇じゃない!ってキレたこともあったらしいし。
ぐふっ。どんまい!
おっと話が逸れに逸れまくった。
それでもスタニスラフスキー・システムは優れているんです。
使い方をミスったら良薬だってまずいでしょ?
何を言いたいかというと、
色々考え、探り、理解するという行為は悪いことではない、
ということを言いたかったのです。
分別。要はYESかNOか、決めてしまう。
これがまずいのです。
昔、小学校かなんかでこんな言葉がありました。
YESかNOか半分か。
この、半分。
これがアニシモフ氏は言いたかったのではないだろうか。
曖昧っていうと語弊が出そうなんでこう言います。
私がよく、演出しているときに口に出す言葉を記します。
微妙な感情。微妙な揺れ。微妙な振れ幅。
AとBのあいのこ。
あっ、でもだからって全てを半分にするのは駄目よ?
それこそ曖昧って奴だから。
彼の言葉に耳を傾けながら私は、
強い感銘を受け、自分の方向性が近しいことに感激しておりました。
光の淵に何か見ましたよ?▲
次回、
さまよえるクエスチョン「チャイカ」
この次も、サービスサービスゥ!
私の書き殴ったノートをまとめていこうと思う。
第9回シアターX 国際舞台芸術祭 2010
プレ・シンポジウム
★ 主催・代表である女性
全四幕の喜劇である、
チェーホフの「かもめ」は、
これまで様々な解釈・演出がされてきた。▲
シアターXのフェスティバルの歴史などを交えた、
彼女の挨拶が終わると、
司会者である男性がある男性を指名。
ロシア功労芸術家であり、
東京ノーヴィ・レパートリーシアター芸術監督でもあるかたの、
通訳者を介しての発言となる。
★ レオニード・アニシモフ氏
様々な国・場所・人でチェーホフを上演してきた。
同じ演目でもあるし、そうでないときもある。
そんな中、毎回同じ問題に直面する。
チェーホフ作品には、
ある種の繊細さ・微妙さがついて回り、表現が難しい。
また、
ロシアで、詩的・音楽的とされるチェーホフだが、
ヨーロッパでもそう言われている。
チェーホフ作品は音楽である、と。
翻訳された言葉においても、言語の美しさを感じることだろう。
チェーホフは、
人間の魂の感覚に非常に微妙なアプローチをしている。
彼は、気分・予感という問題を初めて取り入れた。
これには、当時の歴史的背景が大きく影響している。
当時ロシアでは資本主義が始まったばかり。
人々の生活に変化が現れた。
分別・金・人間関係の問題が出てきた。
分別と心の衝突。
それがチェーホフの根本的テーマである。
そして彼の作品全てに、金・分別の問題が出てくる。
一人一人の中にその戦いが存在している。
多くの芸術家がそれを直感的に感じ、今日的に感じている。
デリケート・繊細な感情で生きていきたくても、金の問題が出てくる。
金というモノがチェーホフの喜劇的からくりである。
かもめにおいては、
銭勘定で生きている女優と作家が素朴な村へやってくるし、
他作品においても同様に、金に対する何かが描かれている。
そして、
四大戯曲の最後の作品である、桜の園では、
文化と美しさが伐採されている。
四大戯曲の最初の作品である、かもめにしても同様だろう。▲
まあ、こんな感じでチェーホフ作品についての話があり、
その後、少々テクニカル的な内容へ移行する。
チェーホフ作品への取り組み・表現について、だ。
★ アニシモフ氏:続き
チェーホフは、分別によって表現できない。
現代の俳優はあまりに分別つけすぎる。
アメリカ俳優においては、
金に対する問題は軽々とやってのける。
だが気分・人間的な感情は出来ない。
彼らによってその問題は辛く、難しいのである。
これについては、残念ながら現在のロシア俳優も同様である。
昔のロシアの芝居には分別臭さはなかった。
20、30年前は、感受性に富んだロシアの芝居があった。
日本人俳優は、
チェーホフ作品における繊細なモノを自然に受け入れることが出来る。
おそらく、日本文化に繊細さがあるからだろう。
だが、それを表現できるかは別問題。
今は残念ながら出来ていない。
チェーホフの、魂の世界に行き着けるだろうか。▲
ざっとこんな感じのことをおっしゃっておりました。
するとすかさず司会者から質問が飛ぶ。
「金勘定とは?」
ロシア語を通訳した際の言葉が気になったのだろう。
より明確にしておくための、実に気の利いた質問。
★ アニシモフ氏の通訳者による補足
分別臭い、つまり損得勘定のこと。
論理的すぎる。物質主義的である。
何も金だけの問題でなく、全てにおいてである。▲
まだまだ先は長いのだが、
とりあえず今日はここまで。
★ 演劇死神ラディーの考察
金の問題は容易に理解出来ても(さすが資本至上主義)、気分の問題にはさっぱりなアメリカ俳優。
気分の問題が理解は出来る(でも表現できない)日本人俳優。
この違いはコンテクスト(コンテキスト)文化によるものだろう。
日本は、高コンテクスト文化とされている。
生活習慣・文化的背景・経験に共通点が多いことにより、
伝える努力やスキルがそれほどなくても、
互いに相手の意図を察しあうことで、
なんとなく通じてしまう、便利な(ある意味曖昧な)文化。
共有時間や共有体験がモノを言う文化。
ex.
NOと言えない日本人。
同じ釜の飯を食った仲間ならツーカーで分かる。阿吽の呼吸。
年功序列。
これに対し、
アメリカは多民族国家であり、低コンテクスト文化とされている。
宗教や先祖の歴史的背景、教育環境の在り方が多岐に渡ることにより、
コンテクストに依存するのでなく(依存しにくい)、
言語によりコミュニケーションを図ろうとする文化。
要は、個々人が独自性を尊重し、
己の考えや意思を明確に伝えることが絶対とされる文化。
ex.
YES or NO
実力主義。
だが、人間関係が希薄化していく現在の日本において、
そしてアメリカ型資本主義の影響・恩恵のある日本において、
ロシアの演劇人であるアニシモフ氏のいう、
日本人特有の繊細さも正直眉唾であるだろう。
感受性に富んだロシア芝居が分別臭くなってしまったように、
日本の芝居だってその道を辿ることだろう。
いや、既に辿っているのだろう。
アニシモフ氏は、
日本人の多い中、気を使っただけのことである。
しかしそれでも、
繊細な心の問題を理解出来たとしても、
表現に至っていないということを譲らなかったのはさすがである。
そう、「理解出来る」ことと「表現出来る」というのはイコールには成り得ないのである。
しかし、表現するには理解せねばなるまい。
理解出来るからこそ、次のステージへ進めるのである。
しかし、
理解してしまうことで、分別臭くはならないだろうか。
これについて私はこう考える。
理解したつもりでいるなら、分別臭くなるかもしれない。
しかし理解することが分別臭さになってしまうとは思わない。
あくまで理解したつもり、理解したふり、がまずいのである。
ロシア演劇に欠かせないのはやはり
チェーホフ劇を上演していたモスクワ芸術座(ちなみにシンボルはカモメのマーク!)。
そこには、演劇人で知らない奴が居たら今すぐ消え去ったほうが良い御方が携わっていた。
そう、スタニスラフスキーである。
彼の提唱した演技術(スタニスラフスキー・システム)は
多大な影響を与え、今も与え続けているはずです。
リー・ストラスバーグ(メソード演技)もそれを軸にしているし、
その演技術により、かのマリリン・モンローとかも育ったわけです。
アクターズ・スタジオ!!!
まあ、余談ですが、
チェーホフのかもめを上演した際、
スタニスラフスキーは売れっ子作家トリゴーリンを演じたのですが、
内面(作家としての悩み)を強く反映させたため、
歩き方から語り口まで、全てにおいてウンコだったようで、
チェーホフもそのときはノーコメント、
後に、あんなトリゴーリンならニーナは恋なんてしなかったろうよとぼやいたとか。
それに、かもめ上演の際に、
チェーホフがこれは悲劇じゃない!ってキレたこともあったらしいし。
ぐふっ。どんまい!
おっと話が逸れに逸れまくった。
それでもスタニスラフスキー・システムは優れているんです。
使い方をミスったら良薬だってまずいでしょ?
何を言いたいかというと、
色々考え、探り、理解するという行為は悪いことではない、
ということを言いたかったのです。
分別。要はYESかNOか、決めてしまう。
これがまずいのです。
昔、小学校かなんかでこんな言葉がありました。
YESかNOか半分か。
この、半分。
これがアニシモフ氏は言いたかったのではないだろうか。
曖昧っていうと語弊が出そうなんでこう言います。
私がよく、演出しているときに口に出す言葉を記します。
微妙な感情。微妙な揺れ。微妙な振れ幅。
AとBのあいのこ。
あっ、でもだからって全てを半分にするのは駄目よ?
それこそ曖昧って奴だから。
彼の言葉に耳を傾けながら私は、
強い感銘を受け、自分の方向性が近しいことに感激しておりました。
光の淵に何か見ましたよ?▲
次回、
さまよえるクエスチョン「チャイカ」
この次も、サービスサービスゥ!
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